◎自分が認められる人しか認められない。

 

同じような様式で生きている人かどうかを見分けること、でよりよく=安全に生きていくということはある。毎回毎回が新たな価値観、様式だったら、いわゆる気疲れとかが起こる訳で、ある程度予測の範囲内で生きれるようにするため、自身の経験に基づいて

予測できる行動をする人を見分ける「基準」というものが各個人にあり、それに基づいて人間をソートしつきあい方を変えている。

 

さて、それは方便=方法=生きていくための、なのだが、知らずのうちに「楽」だから

そういう枠に入る人としかつきあわなくなる。この枠が一度決めたら、中々広がらない。なぜ広がらないのか。いたいからだ。そして疲れるからだ、そしてメリットがみえないからだ。なんで無理して広げないと行けないのだ?今のままで不自由が無いじゃないかと、そういうことなんだ。

 

受容できる人の範囲が狭まる、というか固定化すると、結果的に知り合える人が減り、知り合いの中でいたかもしれない、決定的な出会いを失う事にもなる。

 

◎受容できる人の幅を増やしたい!

人に沢山あうということではない。受容できる人の範囲が広がっていない中での出会いはそれは、「心地よい人」との連続的な出会いでしかない、広がっていない。

 

◎自己研鑽と「ちょいずれ」

基本は自己研鑽であろう、受容度とは裏返すと、会いたい人、会いたい種類の人を増やすということ。どんな人に会いたいとおもうのか?、というか思わないと会いたくならない、どうやって思うのか?

 

興味の幅を広げるという事、深く進むという事。

何を始めるにも遅いということはない。といわれる多分そうだ、危機感がドライバーだ。

 

ちょいずれとはつまり、知り合いの中でも少しずれている、またはずれている範囲の事を知っている人のコミュにいる人だ。そういう人と自分の知りたい事をかけ算できれば広がるであろう。

 

◎数は力数は力数は力

打率ではなく、打点だ。得点だ。